今週のプレマスターズ
Kick, Pull, Turn, Swim 50mはディセンディング
Swim 25mはBroken
最後のBrokenの戻りがキツかった。他は思ったよりも楽だった。
25m Fly 15"77
50m Fly 36"08
朝井リョウ/何者を読んで
今までの教育でみんなと同じように、画一的な、前ならえな教育を施されきた若者がいきなり個性をアピールすることを求められる就活って本当に酷だと思う。
ESが通らない、面接を受けて落とされる。なんで落とされたかは教えてくれない。それは疑心暗鬼にならないはずがない。
就職がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒否される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分を、たいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。
この小説には最後に仕掛けが待っているのだが、みんなで「仲間」として就活を頑張っていますという中での、嫉み、自分だけはこいつらとは違うんだという仮想的有能感をうまく表現している。就職試験を受けるということは、今まで点数をつけられていたテストで赤点をもらうこととは違うものがある。それは、自分の人格を否定されるほどの痛手になることだし、そこから立ち直ってさらに前に進んで行かなければならない若者が自己防衛として、仮想的有能感を持つことは必然ではないのだろうか。
裏返された模擬ESは、水のりを使ったからだろう、証明写真が貼られているところだけでこぼこと波打っている。証明写真に写っているはずのないまっずぐに伸びた自信満々の背中が、裏返された模擬ESを透かせば見えるような気がした。
みんなが同じ画一的なリクルートスーツを来て、説明会や試験を受けに行くことを批判する隆良が出てくる。隆良にとってみたらみんなと「違う」ということが自分の価値観を引き立てているとアピールする。
たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の石のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分はアーティストや起業家にはきっともうなれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じように面接に臨んでいるだけだ。
就職活動をしている学生は、みんなちょっとしたことで、揚げ足を取られないように気を遣う。他人と違うことをしていることが、協調性が欠如しているから団体行動が取れないのでこの子は仕事をする上で向いていないと言われないための最大限の考慮なのだ。それを笑うものがいるのであれば、笑えばいい。こんな社会に誰がした?といった仄暗い社会の暗部を見せられている気分に浸らせられる。
最後は、作者からのメッセージかなと自分は思って読んだ。
十点でも二十点でもいいから、自分を出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。百点になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって。
何者かになろうとする若者へ向けてのメッセージ。他人に評価されることが全てじゃないんだよ。自分が自分の人生の主人公なんだ。他人の見た目のために取り繕っていてもいつまでたっても何も出来ないよといったメッセージを感じた。このメッセージは今の若者にとってみたらとても酷なものに感じられる。自分だけの力では何者にもなれないと思い込んでる若者へのメッセージなのかもしれないのだけど、失敗が許されない(許されないと思わせる)社会で、自己を表現していくことにはすごく勇気が必要だ。
「誰でも知っているでけえ商社とか、広告とかマスコミとか、そういうところの内定って、なんかまるでその人が全部まるごと肯定されている感じじゃん」
ノリが重要な若者たち
「うちら」の世界 - 24時間残念営業関連の記事がどんどん書かれていて、いろいろと考えさせられる。
自分も年代的には若者たち世代なのだが、最近の若者って同じ年齢の人としかつるんでいないんじゃないかなと思える節が多い。
これってFacebookみたいなSNSで環境が変わったとしても繋がり続けていることが要因の一つになっているんじゃないかなと思いつつ、さらには、ご近所付き合いとか部落での活動みたいなのが激減もしくは皆無になったことにより、幅広い年齢の人々がごった返すことが無くなったこと、若い人の多くが非正規雇用になるといった時代の流れにより職場での人と人との繋がりの希薄化が影響も考慮に入れるべきだと考える。
今の若者ってみんなと繋がってはいるけれど、その繋がり自体が物凄く細くて、関係も薄氷の上に成り立っているものが多い中で、上手くやりくりするには、「うちら」の世界で認めてもらう必要が出てくる。この同調圧力によりみんな悪ふざけをして少しでも仲間に入れてもらおうとする寂しい気持ちが混じっているのではないのかと考察する。
「友だち関係」が薄氷の上に成り立っているんだなぁと再認識されられたのが以下の記事。引用させて頂く。
若者たちの悩み相談の相手として「友だち」が減り、「お母さん」が上昇していることだ。原田曜平氏はその原因を、バブル以降、親が子どもに自分の生き方を押し付けられなくなったことで親子の距離が縮まったとし、古市憲寿氏は、学校の悩み、友だちの悩みが中心なのだから学校以外で相談するのは自然なこと、と述べている。前回の調査からずいぶん開いているので簡単に言えないが、ソーシャルメディアの内輪化による友だちからの圧力の増加を、ここに見出すことができるかもしれない。
何かしら「あいつはノリが悪い」と思わせることで、「うちら」の世界にいられなくなることがこの現象には含まれているのではないか。とにかく若者は「うちら」の世界しかないので、そこにしがみ付くことに苦心している。その中であいつはノリがいいと言われたいがために「悪ふざけ」をしているのではないのか。
8月7日の朝日新聞のオピニオンの辛酸なめ子さんの記事にもそんな一文がある。
とある高校の生徒たちが、授業でお互いのいいところを書き合う番組を見たのですが、ほとんどの子が「ノリがいい」って書いていて。そうか、このままでノリをアピールしなきゃいけないんだ、高校生も大変だ、と思いました。
「お前おもしろくねーな!空気読めよ!」って言われることが今の若者にとってもっとも避けたいことで、それが「うちら」の世界に必死にしがみつこうとする行動を生み出す契機になっていると考えてみた。
とりあえず自分が気になることは、昔も変わらずに同年齢の人だけが集うコミュニティがこんなにも幅を効かせていたのかということである。昔はもっと幅広い年齢の人が集うコミュニティがあったとすれば、それは社会構造を教える一端を担っていたと思うし、それにより若者の世間知らずのブレーキと教育役になってたのではないか。
確かに、ネットリテラシーの問題が大きく底には横たわっているけれども、それと同時にこの文化人類学的なアプローチにも目を向けることがこれらの風潮を理解するのに役に立つと思うし、これからの若者の教育、さらには日本の未来を決めていくのではないのか。